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カズオ・イシグロ『夜想曲集』あらすじ・感想

本書は2009年に刊行されたカズオ・イシグロ初の短編集。サブタイトルの通り、音楽と夕暮れを共通のモチーフとした短編が五つ収録されている。

私は最初タイトルを見て「なんかつまんなそうだな」と思った(※本当につまらないだろうと思っていたわけではない。すでに『日の名残り』を読んで著者の作風を気に入っていたから)。なぜなら「音楽」や「夕暮れ」というワードに何も興味を引かれなかったからだ。いや、「音楽」や「夕暮れ」が美しいのはわかるが、それを主題とした小説を読みたいとは思わない。単に美しいものを美しく書いただけの小説は、私の嗜好から外れる。

が、実際に読んでみると、音楽と夕暮れの耽美性を前面に押し出すわけではなく、あくまでも小道具のひとつとして人間のありようを中心に描いていたため、気がつくとタイトルから受けたネガティブな印象は消えていた。私の目の前には、一組の充実した物語群があるだけだった。私は安心して、その物語の渦のなかに飛び込み、カズオ・イシグロの濃縮されたエッセンスを楽しんだ。

この記事では、そんな『夜想曲集』のあらすじと感想を書いていきたい。

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老歌手(原題:Crooner)

 ある朝、観光客に混じってすわっているトニー・ガードナーを見た。ベネチアはちょうど春に変わろうとしていて、私たちは一週間前から戸外で演奏するようになっていた。…

――『老歌手』冒頭

往年の人気歌手トニー・ガードナーを目にした流れのギタリストである主人公が、彼に話しかけたところ、演奏の依頼を持ちかけられる。トニー・ガードナーは二十七年ぶりに妻と二人でベネチアに訪れたことを記念し、妻にセレナーデを聞かせてやりたいのだという。母が大ファンだったこともあり、大物歌手との出会いに興奮していた主人公は快諾し、妻・リンディへと捧げる曲の打ち合わせを進めていく…という話。

正直なところ、私はこの「老歌手」が『夜想曲集』の中では一番面白くないと思った。なぜかというと物語の大半が、曲の打ち合わせとトニー・ガードナーが語る自身と妻の過去話に充てられていたからだ。カズオ・イシグロの作風は、過去のできごとと、現在のできごとをうまくからめながら話を構成していくのが特徴だが、この短編はもっぱら過去のできごとに焦点を当てていて、物語に動きがないのがやや不満だった。

ただ、妻のリンディは後の短編にも登場するため、その短編とセットで見ると、話は変わってくる。そちらの短編は動きの豊かな非常に生き生きとした物語なので、「老歌手」でリンディのバックボーンを知っておいた方が、より楽しめることは間違いない。

もちろんこの「老歌手」にも魅力はある。たとえば、トニー・ガードナーが妻との行く末を主人公に明かすシーンは面白い。人によっては「なぜそんなことを? ふざけている!」と思うかもしれないが、世間から脚光を浴びる芸能界に身を置く人物ということを考えれば、そういう心理に至っても不思議ではないように思う。

降っても晴れても(原題:Come Rain or Come Shine)

 エミリもぼくもアメリカの古いブロードウェイソングが好きだった。向こうはどちらかといえばアップテンポの曲、たとえばアービング・バーリンの《チーク・トゥ・チーク》、コール・ポーターの《ビギン・ザ・ビギン》などがお気に入りで、対するぼくは《ヒアズ・ザット・レイニー・デイ》や《イット・ネバー・エンタード・マイ・マインド》のような甘くほろ苦いバラードが好き。傾向は多少違ったが、重なり合う部分は大きく、それより何より、あの時代に、イングランド南部の大学でこんなジャンルにうつつをぬかす仲間にめぐり合えたこと自体が奇蹟に近かった。…

――『降っても晴れても』冒頭

世界中を巡って英語教師をしているうだつの上がらない〈ぼく〉(レイモンド)。今年の夏にロンドン行きの計画を立て、大学時代からの親友であるチャーリーとエミリ夫妻の家に泊めてもらおうとするが、その際チャーリーから「妻の機嫌をよくしてほしい」という頼み事をされる。〈ぼく〉は自分が友人夫婦の仲を取りもつことに荷の重さを感じながらも、その頼みを受け、出張にたったチャーリーの不在中、エミリと旧交をあたためる…という話。

この短編で面白いのは、主人公の〈ぼく〉が親友のチャーリー・エミリの両方から完全に馬鹿にされていること。四十七歳になっても、低賃金・長時間労働の仕事に甘んじ、人生を成功に導くための行動を起こさない〈ぼく〉に対して、チャーリーとエミリは容赦ない罵倒を浴びせる(「能力はあるのに、恥ずかしくない? あなたの暮らしぶりなんて、はたで見ているわたしたちのほうがいらいらするわよ。ああ腹が立つ」――文庫P72)、「(…)ほかの連中を見てみろ。昔の仲間はどうだ。たとえば、レイは? あいつのどうしようもない人生を見てみろ――エミリにはそういうことをわかってほしい」――文庫P74)

こうしたことを言われながらも、〈ぼく〉は怒ったり、不機嫌になったりする様子は見せない。どうやら二人が主人公に対して言いたい放題なのは昔からのことのようで、主人公も気にしていないらしい。こういった系統の話にふさわしく、「降っても晴れても」はドタバタともいえるコミカル調に仕上げられている。なかでも主人公が犯してしまった失敗を隠ぺいするために、様々な工作に奔走するさまは、じつにバカバカしくて笑いを誘う。

また注目すべきは登場人物たちの会話における「誤解の多さ」である。全員が非日常的な状況下にいるせいか、相手の話の意味を取り違えることは一度や二度ではない。たとえば、ある場面では、チャーリーがエミリに間男がいるかどうかという話をしようとしているのに、主人公はチャーリーにゲイの愛人がいるかどうかを問われていると勘違いしたシーンがあり、筆者は内心吹き出したものだ。

この会話上での「誤解」は物語に喜劇性を与えると同時に、より現実に近い人間の思考を登場人物たちに持たせるという文学上の試みでもある。実際、人間が何の誤解も思い込みもなく、他者とコミュニケーションを図るという状況は逆に不自然だ。そこでカズオ・イシグロは意図的に登場人物たちの会話に齟齬を発生させたのだろう。

モールバンヒルズ(原題:Malvern Hills)

 春はロンドンで過ごした。やろうとしたことはいろいろあって、その全部が達成できたわけではないが、まずまず刺激的な日々だったと思う。だが、一週間また一週間と時間が過ぎ、夏が近づいてくるにつれて、またぞろ落ち着かない気分が戻ってきた。…

――『モールバンヒルズ』冒頭

プロのミュージシャンを目指す〈ぼく〉はロンドンで受けた数々のオーディションに失望し、都会から一時離れることを決める。姉夫婦が経営しているモールバンヒルズのカフェにスタッフとして働きながら居候させてもらい、作曲を行っていたある日、スイスから観光にやって来た中年夫婦が店に入ってくる。〈ぼく〉はその夫婦の妻の態度に憤慨し、その仕返しに周辺で最悪の評判をもつ民宿を夫婦に紹介する。しかしその二人は後にプロミュージシャンであることがわかり…という話。

筆者がまず気になったのは〈ぼく〉がロンドンのオーディションに失望した理由。〈ぼく〉はそれらのオーディションにことごとく落ちたわけだが、その原因の1つが「自分で作曲をしているから」とのこと。オーディション会場(薄汚いアパート)で演奏した曲を「自作」だと言うと、とたんに肩をすくめられ、首が横に振られるのだという。

この異常性は主人公もはっきり感じていて、だからこそロンドンを離れる決意をしたわけである((…)正直、これが問題だと言われること自体が、ぼくにはまったく予想外だった。自分で曲を書くことが問題……?――文庫P129)。オーディションを審査する彼らに言わせると、自分で曲を書く人物は「オナニー野郎」なのだそうだ。そしてこの考え方はロンドンの音楽サークルに蔓延しているらしい。筆者は国内外の音楽サークル事情に詳しくないのでわからないが、実際に都会の音楽サークルではこういうことが起こりうるものなのだろうか。また当時(訳者あとがきによると、この短編集はベルリン崩壊から9.11までの時代を想定して書かれたものとのこと)のロンドンに限った話なのだろうか――もちろん、カズオ・イシグロの創作という可能性もあるが。いずれにせよ、自分で曲を書く行為が、音楽サークルのオーディションで不利になるというこのエピソードは筆者にとってかなり驚きだった。

肝心のストーリーだが、上のエピソードと比べるとかなり印象は薄い。もともと関係がうまくいってなさそうな夫婦を、主人公が紹介した民宿のせいで、不和を決定的なものにさせたのではないかと、主人公が罪悪感を持つという、それだけの話だ。ただ、語り口が見事なのと、細部の描写に面白さが詰まっているため、読んでいて退屈することはなかった。

夜想曲(原題:Nocturne)

 二日前まで、おれはリンディ・ガードナーのお隣さんだった……なんて言うと、おい、ビバリーヒルズかよ、と思うかもしれない。映画プロデューサーか? 俳優か? ミュージシャンか?……まあ、ミュージシャンではある。ただ、名のある歌手の伴奏をしたことも一、二度あるが、世間的にはメジャーと呼ばれる存在ではない。…

――『夜想曲』冒頭

才能は抜群だが、メジャーになれないテナーサックス奏者の〈おれ〉が、メジャーになるためには「顔が重要」というマネージャーの強い意見にそそのかされ、美容整形手術を受ける。手術後、包帯が取れるまで滞在する予定の一流ホテルの隣室には、同じく美容整形手術を行ったばかりのリンディ・ガードナーがいた(手術費用は金持ちの妻の間男が不倫のお詫びに支払った)。ある日、ホテル生活の退屈しのぎにリンディから部屋に招かれた〈おれ〉は、リンディとの数夜にわたる会話、行動を通して、美容整形手術を受けたことが果たして正しい選択だったかどうかを自問していく…という話。

顔がよくないせいで売れない、というのは普通にありうることで、日本の音楽界を見ていても、「顔がよかったらもっと売れたんだろうな」というミュージシャンはいくらでも見つかる(誰とは言わないが)。しかし、顔の造形のわりにメジャーに登りつめたミュージシャンもいるのは確かで、主人公はその例をあげて美容整形手術を勧めるマネージャーに対して反駁を試みるが、それは醜さの種類が違うということで一蹴されてしまう(「醜男は醜男だが、あれは悪人面でセクシーだからな。対しておまえのは退屈な醜さだ(…)」――文庫P180)。主人公にとってはなんともやりきれない話だが(しかも主人公は同時期に妻から別れを告げられている)、読者のわれわれからすると、思わず笑ってしまうような哀愁漂う悲喜劇的な物語だ。

また「夜想曲」は「降っても晴れても」と並ぶほど、大衆的な面白さを持つ話でもある。特に主人公がリンディとともに、夜中のホテル内を探索する場面は、読む側からしても童心に返ったかのようなワクワクした気持ちにさせられる。

それに加え、状況そのものの面白さもある。主人公とリンディはどちらも顔にメスを入れたばかりなので、顔が包帯でぐるぐる巻きにされている。そんな怪物じみた見た目の二人が音楽の話をしたり、夜中に部屋を抜け出してホテル内をうろうろするという状況は、想像してみるとそれだけで面白い。

ただ1つ気になったのは、果たして二人の美容整形手術は成功したのか? ということ。作中では手術を行ったのは美容整形外科の最高の権威だから結果には何の心配もいらないということをリンディは言うのだが、実際に顔の包帯を取ってからのことは描写されていないため、どんな顔になったのか、そしてその顔がそれからの二人の人生にどう影響を及ぼしたのかがわからない。もちろんそこをあえてぼかすことで、想像の余地を残しているわけだが、筆者は二人がその後どうなったのかを少しでもいいから知りたかった。せめてリンディの後日談くらいは書いてもよかったのではないかと思う。

チェリスト(原題:Cellists)

 《ゴッドファーザー》を演奏するのは、昼食後これが三回目になる。私は広場にすわっている観光客を見渡しながら、二回目の演奏のときにいた顔がどれほど混じっているかを数えていた。…

――『チェリスト』冒頭

短編集の最後を飾るのが本作。一年を通し、広場の観光客に向けて演奏する日々を送っている〈私〉は、七年前にバンド仲間だったチェリストのティボールが客の顔に混じっていることに気づく。〈私〉は今はヨーロッパ中に散り散りになっている昔のバンド仲間たちに思いをはせ、そして七年前の異常なほど暑い夏に起こった、ティボールと、高名な音楽家を名乗るある女との出会いを回想する…という話。

この話はかなり独特で、他の短編と一線を画す形式になっている。本作は〈私〉の一人称にもかかわらず、語られることのほとんどは、七年前のティボールに起きた女とのエピソードである。それもまるで三人称小説のようにティボールの体験が微に入り細を穿って語られるため、〈私〉の一人称である意味があるのかないのかわからなくなってくる。〈私〉がなぜティボールの体験を事細かに知っているかというと、ティボール自身がその体験をバンド仲間に包み隠さず報告していたからであるようだ(「感じのよい人で、美しいとさえ感じました」と、ティボールはのちに語った。(…)――文庫P267)

ティボールの体験の合間に、ちょくちょく〈私〉や周囲のバンド仲間のことも語られるのだが、それもティボールの体験をめぐる周囲の反応というふうに書かれるため、〈私〉はもはや主人公ではなく、語り手という役割を与えられただけの脇役の一人という感じすらしてくる。ちょうどジャーナリストによって書かれた、誰かの体験をもとにした記事を読むイメージだ。

ガルシア=マルケスの『予告された殺人の記録』でも似たようなジャーナリズム的手法が用いられている。マルケスの方は田舎町で起こった事件を内部と外部の両方から浮き彫りにするために必要な形式だったわけだが、「チェリスト」の方もそういう試みでこのような書き方になったのだろうか。個人的にはマルケスと違って、その必要性を感じない話だと思う。だが、作品に不気味な奥行きを持たせることには成功していて(なにしろ一度主人公の脳を通してティボールの体験が読者に伝えられるわけなので)、ティボールの体験自体の奇妙さも相まって、不思議と心に残る短編だと筆者は思った。

ちなみに本作の語り手が昼食後三回も演奏したという《ゴッドファーザー》だが、最初の短編「老歌手」の語り手も、《ゴッドファーザー》の愛のテーマを一日に九回演奏したことがあると語っている。「老歌手」と「チェリスト」はどちらもイタリアの都市を舞台にしている。《ゴッドファーザー》はイタリア系マフィアを描いた映画なので、イタリア都市を訪れる観光客に聞かせるのに最適な曲ということなのだろうか。

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